自転車 case 05 作・堀愛子
僕は乗れない。
小学四年生の夏。
ぎこちないペダルの踏み方で
習字教室のある坂を下っている時だった。
思ったよりも急だった坂に
緊張しながらもブレーキをかけずに
風に任せて走っていた。
不覚にも目を逸らしてしまったその隙に
僕は目の前の石ころに気づかずに
自転車ごと宙を舞った。
僕の人生の三分の一くらいを変えてしまった出来事だと思う。
僕は自転車に乗れなくなった。
大怪我をしたのは言うまでもないが、
怪我が治ったその後も、
僕は自転車には乗れなくなった。
中学時代も高校時代も
毎日祖母に車で迎えにきてもらった。
自転車に乗れない。
それは、僕の中でひとつの大きなコンプレックスだった。
ぐるぐる回る季節。
改札口から昨日声をかけてくれた友達が手を振ってくれる、春。
大学から電車通学になり、このコンプレックスからは逃れられるようになったけれど、
あの坂を歩いて下る瞬間だけは
なんとも言えない時間だ。
大学で知り合った、梶という友達がいる。
コンプレックを隠し続けてきた僕からしたら、
知られた時の恥ずかしさは尋常じゃないし
なんならトラウマだ。地獄なんだ。
「今度チャリでキャンプいこうや」
話の流れなんて恐ろしくて方向転換したいけど、逃れられない状況をつくる梶はとても怖かった。
「僕、自転車乗れないから」
梶の顔も見れなかった。
帰ってご飯を食べて寝よう。
明日からもいつも通り起きて
ひとりで昼ごはんを食べればいい。
梶が言った。
「そーなんや」
それだけだった。
変だよね、なんて言うのすら恥ずかしいくらい清々しい相槌に、僕はお腹の空気が抜けたような感覚になった。
僕が勝手にコンプレックに仕立て上げていただけだった。
自転車に乗れないからなんだ。
僕が気にしているよりも全然小さなことだったのだと気づいた。
あの坂を歩いて下る瞬間が怖くなくなったのは、彼のおかげかもしれない。
2019年5月17日
堀愛子
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