person 71  作・木庭美生

井上輝。30歳。男。

家の風呂が壊れた。

自動で湯を張る風呂が湯を張らなくなった。

シャワーで済ませればいいだけだから頭から洗った。

めんどくさいし、シャンプーでそのまま全身洗いたくもなるけどそういうわけにもいかず普通にボディーソープで体を洗った。

横を見ると空の浴槽。全くお湯の張られていない浴槽がある。

手に入らないとか、ものがないときほど欲しいと思ってしまう心は誰しもあると思う。

うん。お湯につかりたい。肩まで。のんびりと。

普段は特別思わないけど、やっぱり当たり前を当たり前に思うからそんなものなんだろう。

気づいたからには意識を改めよう。

と思ったのが昨日の話で、意識をあらためるためにも特別感を一度出してみる。

銭湯に行く。

風呂桶を持って、シャンプー、ボディーソープ、タオルを持って外を歩く。

家を出てからなんとなく気づいたのはたぶん今どき風呂桶を持って銭湯に歩いていくやつはいない。銭湯の近くまで来ても風呂桶を持ってるやつなんていなかった。

銭湯についたらお金を払って入っていく。

脱衣所には当たり前だけど全く知らない赤の他人が何も服を着ていない状態でいたりするから少し怖気づいたけど、本番はこれからだと思って頑張る。

平和に頭も体も洗い終え、ようやく念願の湯船につかる。

肩までつかって、足も伸ばせる。

全く知らない人間と同じ湯船につかるのは不思議な感覚で、自分の中の当たり前の世界になかった空間だった。

のんびりお湯を堪能しながら考えるのは、次来る時は風呂桶は持ってこないでおこうってことだけ。


2019年5月21日

木庭美生

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